隅田川七福神めぐり

なぜ、向島に「花柳界」ができたのか
江戸時代後期、隅田川で舟遊びに興じたり、堤の桜や周囲の風光明婚な自然を愛でに向島を訪れた人々 が、料亭を利用したことがきっかけと言われています。鯉こくや芋田楽、しじみ汁など素朴な料理に舌鼓を打ち、酒を飲む。
風流を好む文人墨客や大官紳商(身分の高い官吏と品格と地位を備えた上流の商人)の、賛沢な楽しみのひとつでした。そして、その遊びに花を添えたのが芸妓さんたちなのです。
明治時代に入ると、向島には木格的な花柳界が形成されます。江戸期にもまして、多くの人々 が集うようになったからですQ 『 向島花街沿革』 によると、向島の芸妓数は、「明治31 年(1898 年)20 名、同40 年54 名、同45 年60 名」であったと記されています。さらに大正時代には、「銘酒屋」と呼ばれていた業者の一部が、浅草から向島へ移り住み、芸妓屋に転向したために、その規模はさらに拡大しました。しかも第一次世界大戦の好景気もあって花柳界は活況を呈しました。
そして昭和15 年には、「芸妓屋408 軒、待合料理屋215 軒、芸妓1300 余名。数的には全国一を占めたJ と記録されています。
ところが戦争(第2 次世界大戦)の激化で様相は一変。花街の明かりが消え、芸妓衆も勤労報国隊と称し、近隣の工場に動員されます。
様々 な紅余曲折はありながらも、これまで拡大の一途を辿ってきた向島花柳界が迎えた''危機"といってもいいでしよう。しかし、この状況は戦後すぐに解消されます。皮肉にも米進駐軍兵士が人ってきたことで、向島花柳界は復活したのです(進駐軍兵士の立ち入りは、21 年3 月限りで禁止されたそうです)。戦時中に使われていた「接待所」とか「接待婦」という名称も、「待合・お茶屋]や「芸妓」という以前の言葉に戻りました。
28 年からは、芸道に精進するための集いや発表会を組織するなど、向島花柳界は、その伝承・文化を復興させるべく活動を再開したのです。そしてこんにち、その先人たちの心意気を受け継いだ芸妓さん約170 名が、伝統のお座敷芸を披露してくれています。