隅田川七福神めぐり

三囲神社
由来と歴史
三井家の江戸の氏神としで知られているが、昔、三囲神社は、田中稲荷と呼はれる墨東の古社だった。文和年間(1352〜1356 )、近江国三井寺の僧源慶が霊夢により東国を巡礼していた途中、ここ牛嶋の地に荒れ果てた小祠を見つけた。
村人に尋ねると弘法大師が創建した由緒ある祠であるとのこと。その様を深く悲しんだ源慶は自ら社殿の修復に取り掛かると埋もれていた壷がひとつ出てきた。その壷に収められていたのは、白狐に跨った神像だった。
その時何処からともなく現れた白狐が神像の周りを三度廻ってまた何処かへか消えていったという。
この故事から「みめぐり」の名が付いたと伝えられている。
三囲神社が現在の墨堤下に移ったのは、慶長年間(1596〜1615 )に発生した隅田川の大洪水後に将軍家康が東岸の嵩上げエ事を命じた以降のことであると伝える。
三囲神社の恵比寿神
大国神
恵比寿神は、鯛を抱えるその御姿から本来は漁師の神として海の彼方より渡り来た豊漁の神であるが、大国神は、もとはインドの神で仏教に入り米俵に載り小槌を持った姿から台所を司る神としても信仰されてきた。室町時代頃より商業が盛んになると
三囲神社の南の鳥居より入って左手の社に鎮座する二神は、もと越後屋(現在の三越)に祭られていたご本像と伝えられる。
弘福寺
由来と歴史
弘福寺は、黄檗宗大本山、黄檗山萬福寺(京都府宇治市)の末寺にあたり祥雲作といわれる釈迦如来像をご本尊とする。以前は、隅田善左エ門村の高森山にあった小庵だったが、延宝元年(1673 )に鉄牛禅師により現在の地に移されると共に、牛頭山弘福寺と改称された。
山号を牛頭としたのは、当時隣接していた牛嶋神社の祭神、須佐之男命の別称が牛頭天王で古くから地主神として祀られていたことに由来する。
同禅宗の中でも最も中国に近い宗派として名高い弘福寺は、本堂の重層な屋根、大棟の宝珠や山門などの随所に特有の唐風建築様式がみられ威巌に満ちた構えを呈している。池田冠山の墓がある。また、少年期を向島で過ごした森鴎外の墓が関東大震災まであった。
布袋尊
七福神の中で唯一実在した中国唐時代の禅僧で名を契比、号を長汀子といった。
小躯、大腹で杖に布袋を荷って物を貰えば袋に貯え、困る人にはそれを施し、その中身は尽きることがなかったといわれる 。
その脱俗的で超然とした姿に信仰は厚く、形而上だけでなく心の豊かさを諭してくれる神とされる。
セキの爺婆尊
山門を入って右側の小堂に停む爺と婆の像。当山開基稲葉家奉納。
この像は、寛文年間のこと風外和尚が求道の旅の折、真鶴の岩洞穴で父母を慕うあまり刻みだしたと伝えられる。
作者風外の「風の外」の文字から風邪にも強かろうと爺像には、喉頭の病に、婆像は咳止めに御利益があるとしで信仰されている。
長命寺
由来と歴史
長命寺の起源は、その開山については明らかではないが寺伝によると元和元年(1615)には、小庵が存在していたと記されている。天台宗で比叡山延暦寺の末寺であり当初は常泉寺と号していた。
寛永元年(1624〜1644)、三代将軍家光が鷹狩に来た折り不意の腹痛に見舞われ、この寺で休息した。その際境内の井戸水で服薬したところ、たちまち快癒し喜んだ家光は、その井戸に長命水の名を与え、同名の称号を寺にも授け、以後長命寺となった。
江戸時代の本堂は安政二年の大地震により全焼し、その後武家屋敷を移転した明治時代の本堂も大正 12 年の関東大震災により焼失したが、阿弥陀如来像は難を遁れ現在の本堂に安置されている。
弁財天
長命寺の弁財天は、琵琶湖の弁財天の分身で通称「老女弁天」と呼はれている。
インドに発生したこの女神は、もとは水辺の神で弁舌、音楽に秀でる芸能の神として信仰された。
また怨敵を除き人間の恐怖や悩みをぬぐい貧しきを救い財宝を与える、御利益があるといわれている。
白鬚神社
由来と歴史
白鬚神社は、天暦五年(951)に慈恵大師が関東に下った時に近江国滋賀郡打颪(滋賀県高島町)に鎮座する白髪大明神の御分霊を勧請し、ここに祀ったのが起源とされる。
祭神は、猿田彦命で国土の神、道案内の守神とされ、また隅田川沿いの道祖神の役割もはたすと共に古くから寺島村の鎮守として厚く信仰されている。
明治四十三年の大洪水の際には、当時神主だった今井直は、氏子と共に井戸に堤防を築き清水を確保し、人 々 の飲み水として役立てたという。この井戸は、今も神楽殿の脇に佇む。
平成二年、心ない暴徒の放火により江戸時代末期に建てられた社殿は全焼し多くの名木も失われたが平成 4 年には社殿は再興され現在に至っている。
白鬚大神
隅田川七福神誕生に際し寿老人は古くより寺島村の鎮守の白鬚、白鬚大明神を祀っている白鬚神社に白羽の矢が立ち、鬚の御名前からして白い鬚の老人の神様たろうと、ここでは特に寿老神とよんでいる。
延命長寿の信仰は古くからあり七福神となってからは、くわえて無病息災、延命長寿を願う人 々の参拝が後を絶たない。
向島百花園
由来と歴史
向島百花園は、文化元年(1804)に佐原鞠塢により造園された。日本橋住吉町で骨董屋を営み生来の風流気質で一流の文人墨客と交流ももち通人として知られていた鞠塢は、当時江戸で流行していた園芸趣味に興じ、店をたたんで寺島村の田園に風流人達寄贈の梅三百六十株を植え梅園を開いた。
当時亀戸の梅屋敷に対し新梅屋敷と呼ばれ格好の行楽地として栄え、その後も名花名草が集められ自然のままの趣きをもち風流の極致をゆく庭園は、梅は百花にさきがけて咲くと酒井抱一が百花園と命名したと伝える。
安政二年の大地震に始まり、大洪水、大空襲、などの様々な困難を過て現在では、山野草木茂るがままの自然美を生かした都立公園として公開されている。又町人の庭として創設の頃の地割リを残す文化遺産としても高く評価され国の名勝・史跡に指定されている。
福禄寿
百花園に奉られている陶製の福禄寿像は、骨董商であった頃の初代佐原鞠塢の遺愛の品と伝えられている。
短身、長頭の容姿とされているが、この像は全身 50cm のうち 40cm が頭という、極端なお姿をしている。
多聞寺
由来と歴史
多聞寺は、天徳年間(957 ー 960 )に創建され不動明王像を御本尊としていた。当時は、隅田千軒宿と呼ばれた古代奥州街道の宿駅(現在の隅田川神社辺り)にあり、大鏡山明王院隅田寺と号していたと伝えられる。
古くよりこの寺は、隅田川神社、別称水神社の別当寺も兼ねていた。天正年間(1 573 ー1591)に現在の地に移り、夢告により弘法大師作といわれる毘沙門天像を勧請し祀り隅田山吉祥院多聞寺と改称したとされる。
亨和三年(1803 )の火災により山門を残し諸堂宇を焼失したが、ご本尊、不動尊、地蔵尊は、難を遁れ再建された。御堂に現在も安置されている。映画人の墓もみどころになっている。
毘沙門天
多聞寺に安置される御本尊毘沙門天は、弘法大師の作と伝えられる木造立像である。
須弥山の四方門を守護する四天王(持国天、増長天、広目天、毘沙門天)の随一で多聞天とも呼ばれ北方の守護にあたり、仏法に帰依する人々を守護する。勇壮の神として古来より武人から信仰心が厚く上杉謙信は、「毘」の字を旗印にしていたことも有名だ。
多聞寺の「隅田川七福神碑」は、幕府の海軍奉行だった榎本武揚の書である。諧謔と風流を愛し生っ粋の江戸っ子であった武揚は、晩年向島に隠居し墨堤の散策をことのほか好んだという。